google.com, pub-8576394212244795, DIRECT, f08c47fec0942fa0

京阪神急行B支線

百々怒涛(どどどとー) と申します。関西モノを中心に色々なBトレインショーティーを収集しています。鉄道趣味の中でもニッチな沼に肩まで浸っております。図鑑的にご覧頂ければ幸いです。

国鉄 153系 湘南色 低運転台

いつも当ブログをご訪問頂き、ありがたく御礼を申し上げます。

この一週間で大きな地震と大雪による被害が発生しました。

被害にあわれた方々には心よりお見舞いを申し上げます。

また地震により東北新幹線が被災し現在も那須塩原-一ノ関間で不通となっています。

そんな中JR東日本は特急ひたちの上野仙台間運転を増発したり、臨時快速を走らせるなどの必死の対応をしています。

鉄道会社は営利企業なので正直「儲かってナンボ」だというところを理解しながらも、いくら緊急事態宣言下で人の移動が制限されているとはいえやはり鉄道は「インフラ」、JR東日本の対応から鉄道は使命を負って運行をしているというプライドや責任感を感じることのできる出来事でした。

一方でJR西日本がコロナ禍で不採算路線の切り捨ての検討を開始する等、プライドだけで飯は食えないというニュースも目の当たりにし、現実の厳しさをひしひしと感じています。

公共性と経済性のバランスを取りながら鉄道・自動車・航空などのベストミックス、ってなんとかならんもんか、と思っていますがなかなか答えは見つからないですね。

本日のご紹介は、在来線での長距離輸送が日常だったころに大活躍したこちらの車両のBトレインショーティーでございます。

f:id:dododotoh:20210205182224p:plain

国鉄 153系 湘南色 低運転台 です。

f:id:dododotoh:20210122173541j:plain

最初に運用された列車名にちなんで「東海形」と呼ばれる車両です。

f:id:dododotoh:20210122173504j:plain

東名間を結んだ準急電車「東海」は、もともとは客車列車から「湘南電車」と呼ばれた80系に置き換わり、客車列車に匹敵する居住性と高速性能を誇りました。

f:id:dododotoh:20210122180251j:plain

その後、1957年に並行カルダン駆動と呼ばれる新技術を用いた通勤電車101系が登場し、その技術を長距離用列車にも用いるべく開発されたのがこの153系です。

f:id:dododotoh:20210122174301j:plain

車両デザインも80系とは大きく変わり、前面貫通型、ヘッドライトを運転席窓下に配置する前面デザインは、国鉄消滅時まで急行・近郊型車両のデフォルトとなりました。

f:id:dododotoh:20210122175743j:plain

今回のご紹介は低運転台車となり登場時の姿となりますが、後年増備された車両は踏切事故対策で乗務員の安全性を高めるために運転台を30cm高くしました。

f:id:dododotoh:20210122175321j:plain

また、ユニット窓と呼ばれる上下分割型の窓を採用したのも本系列が最初との事です。

f:id:dododotoh:20210122175940j:plain

これにより開口部内で窓の開閉が完結するため、窓組みつけの施工性の向上や、窓収納袋が不要となる事で雨水の侵入防止等の腐食対策が不要となるなどの保守性の向上が図られました。

f:id:dododotoh:20210126182239j:plain

153系は登場と共に東名間の「東海」や名阪間の「比叡」等、これまで80系が担ってきた長距離準急・急行列車に順次充当され、ほぼ同時に登場したボンネット型特急車両151系と共に日本の大動脈を支えました。

f:id:dododotoh:20210122173928j:plain

しかし、1964年10月の東海道新幹線開通により、その様相は一変します。

f:id:dododotoh:20210122175859j:plain

運行区間がドン被りする東京大阪間の準急・急行列車は減便となり、153系活躍の場は中国地方へと移ります。

f:id:dododotoh:20210122174550j:plain

四国連絡の玄関口、宇野へのアクセス準急「鷲羽」を新大阪発として増便、東京広島間の急行「宮島」を新大阪広島間に短縮、新大阪下関間に急行「関門」を新設する等、徐々に西方へシフトしてゆきます。

f:id:dododotoh:20210122173805j:plain

f:id:dododotoh:20210122173620j:plain

山陽本線の八本松-瀬野間の急勾配区間、通称「セノハチ」も補機の力を借りて超えていたという記録も散見されます。

f:id:dododotoh:20210122180209j:plain

新幹線の脅威はその後も続き、1972年3月には新大阪-岡山間が開業します。

f:id:dododotoh:20210122174013j:plain

そこで急行運用が少なくなった153系が、関西私鉄の特別料金不要の特急列車に対抗するため、冷房付きの接客設備を活かし、白地にスカイブルーの帯を巻く専用塗色を身にまとい「新快速」運用の任につくこととなりました。

f:id:dododotoh:20210122174353j:plain

1975年には新幹線は博多まで開業し、本格的に153系の行き場は失われることになり、1980年には関西の新快速運用を後任の117系に譲ります。

f:id:dododotoh:20210122173839j:plain

最晩年まで残っていた急行「伊豆」の運用も185系にとってかわられることになり、1983年、JR化を見ることなく廃車されてしまいました。

f:id:dododotoh:20210122174102j:plain

オリジナル車両の保存車は存在せず、食堂車サハシ153から改造され、佐久間レールパークで保存された教習車クヤ165-1も、リニア・鉄道館には引き継がれず、解体されてしまいました。

f:id:dododotoh:20210122174510j:plain

日本の高度成長を底で支えた新性能急行型電車153系。

f:id:dododotoh:20210122180332j:plain

長年長距離を走り続けたその雄姿と功績を、せめてBトレからでも感じてみたいと思います。

↑↑ご紹介済み車両をまとめた索引ページを設けました↑↑

ご紹介順にたどりたい方はこちらから~百々怒涛のブログ~鉄道コム

rd.tetsudo.com