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こんな形でしたが…。
撮り鉄ではないので偶然出会ったものをスマホで収めているだけなのですが、それでもやって来た時にはかなり興奮しました。
本日のご紹介は、いつの日かちゃんと出会える事を期待しつつ、「青の交響曲」と同じお顔を持つこちらの車両のBトレインショーティーでございます。近畿日本鉄道 8000系 旧塗装 方向幕あり です。
1964年に登場した近鉄の通勤電車で、主に奈良線系統(京都線・橿原線)に投入されました。
近鉄奈良線系統では国鉄で言うところの「新性能電車」、カルダン駆動を備えた800系が1955年に投入されていました。
しかし、800系は2扉で車体断面の小さい中型車でした。
何故中型車? その訳は近鉄奈良線にはボトルネックとなる障壁が存在していたからです。
それが、生駒山のど真ん中にぶち抜かれた「生駒トンネル」です。
阪奈間の交通には真ん中に南北に横たわる「生駒山地」があり、これをどうクリアするかが問題でした。
直進するルートは暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)と呼ばれ、『酷道』マニア垂涎の急峻な暗峠(くらがりとうげ)が目の前に立ちはだかります。
迂回するためには大和川が通る生駒山地南端部を通るルート、現在のJR大和路線・近鉄大阪線のルートか、北端を抜ける現在のJR学研都市線のルートがあります。
いずれにしても山地を大きく迂回するため、大阪と奈良中心地を直線的に結ぶルートとは言い難いものでした。
そこで阪奈間を短絡させるために近鉄の前身である大軌(大阪電気軌道)が、1914年に生駒山地を東西にぶち抜いた旧生駒トンネルを開通させます。
GoogleMapとか使えば綺麗なのでしょうが、著作権関係でまずかろうと思い、Excelで簡易な位置関係を自作しました。お見苦しい点はお詫びいたします。
紫がJR学研都市線、ブルーがJR大和路線、オレンジが近鉄大阪線です。いずれも大阪府東端に南北に横たわる生駒山地を回避しているのが、そして真ん中の赤ラインの近鉄奈良線が、いかに阪奈間を短絡させているかもお分かりいただけるかと思います。この旧生駒トンネルは大正時代に掘られ、当時としてはとんでもない難工事だったそうですが、また機会があればご紹介いたします。
こうして阪奈間を短絡させることに成功したのですが、大正時代の規格のため、車両の大きさが小さく、それに合わせたトンネル断面も非常に小さなものでした。
近鉄は1957年に日本初の高加減速車両6800系「ラビットカー」を南大阪線に登場させ、輸送力増強の先兵となっていました。
1961年には奈良線にも大型車900系を登場させますが、旧生駒トンネルを通れないため、瓢箪山駅までの区間運用に限定して使用されていました。(写真は鉄道コレクションの近鉄900系 登場時塗装です。)
戦後復興と高度経済成長を迎えていた時代背景で、輸送力増強には大型車による運行が必須となり、旧生駒トンネルはその障害となっていました。
近鉄は生駒トンネルの大型化を決断し、1964年に旧生駒トンネルの南側に現在の新生駒トンネルを開通させます。
(廃止となった旧生駒トンネルの一部は、現在「近鉄けいはんな線」の生駒トンネルとして拡幅の上転用されています。)
新生駒トンネルの開通に合わせて全線の大型車化という使命を担って同年に登場したのがこの8000系です。
8000系の奈良乗り入れにより、近鉄奈良線の輸送力は向上し、阪奈間交通の近鉄優位が揺るぎないものになりました。
登場時は非冷房かつ方向板を装着する仕様でしたが、のちに冷房化し、方向幕が取り付けられます。
味わっていただきたいのはこの方向幕ボックスの、無理やりともいえる『後付け感』です。
日本の鉄道車両を方々見渡しても、ここまで「無理から」な感じは無いかと思います。
現在では、新塗装に改められていますが、現役車両が奈良・京都・橿原線に残っております。
新塗装車両もよいですが、個人的にはこのマルーンレッド一色の近鉄通勤車が好みです。
なんだか今回は「生駒トンネル物語」みたいになってしまい、8000系のことにあまり触れられませんでしたが、新塗装車両ご紹介の時に改めて機会を頂ければと思います。
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